読切り小説 atami story 熱海物語

第四章

ミレニアムを祝う空気が日増しに盛り上がってきた11月の下旬。俺は恵比須駅にほど近い渋谷橋という所に居る。
・・・Hという、俺の行きつけの飲み屋だ。

店名と同じ名前のHさんとは 『彼が芝浦にあったGというクラブの店員で、俺が客という』 時代からだから約9年の付き合いになる。
Hさんは、およそ板前の風貌をしてないが、料理はすごく美味しい。特に鯖の味噌煮、里芋の煮っころがしは絶品だ。
以前、Hさんから聞いたのだがHさんの実家は築地で代々江戸前の寿司屋をやっているそうだ。多分Hさんには、その代々伝わる板前の血が流れているのだろう。
・・・風貌は胡散臭いラッパーみたいなのに。

俺は、この店にはいつも一人でくる。何故なら人に教えたくない、俺の隠れ家的な存在の店だからである。
(Eさんの行きつけだった原宿の店のように・・・)
でも一人だけ例外がいる、いつも俺が此処で待ち合わせる人・・・。
それは飲み仲間であるW氏である。

W氏は作曲家・編曲家である。
まあ、大まかに言ってしまえばサウンドプロデューサーともいう。
W氏は以前、『S』というバンドのギタリストとしてメジャーデビューしており、当時から、常に先鋭的なサウンドを作りつづけるW氏のサウンド・スタイルが業界内で注目されていた。バンド解散後はサウンドプロデューサーとして活躍し、多数の名曲を送り出している。 またW氏の風貌はというと、サムライ的なごつい顔だちで、男前の部類に入るかとは思うが『恐い印象』がある。その恐い印象に輪をかけるのは、『声質』と『方言』と生まれつきの『大声』である。ロートーンで岡山弁を大声で話されると、その風貌と相まって初対面 の人は大抵びびってしまう。俺も初めて会った時はびびった。しかし仕事を進めていくにしたがって分かるのだがW氏は実は非常に気さくで、とても物腰が柔らかい人である。俺とW氏は2、3回仕事をしている内に何故か意気投合し、気が付いたら『殆ど毎夜一緒に飲んでいる』非常にリラックスする相手となった。
こんな事を考え耽っていた時
「うぃーす!」
という低音の声と立て付けの悪い扉の高音が混ざる、いつもの耳障りの音で我に返った。狭いカウンターの奥に陣取っている俺の横に寒さに鼻の頭を赤くしたW氏が腰掛けた。

「ビールでいいっすか?」
Hさんが話し掛ける。
「ええよ!一緒にとうもろこしも、くれんかの?」
相変わらず大きな声で言った。
  目の前にいるHさんは、その大声には慣れているはずなのに、いつもその声に一々反応する。
「うるせえな!目の前にいるんだからもっと小さな声でしゃべりやがれ!」
今日も岡山弁 VS 江戸弁対決が始まる。

音楽の事、仕事の事、コンピューターの事、そして女の事(!)を3人で、時には真剣に、時には爆笑しながら、いつもの楽しい時間は流れていく・・・。

W氏が店の外にある汚い共同便所から戻ってきた所で、俺は、明後日にW氏とレコーディングする件を思い出した。
「明後日、レコーディングするデモテープがあるんだけど当日まで聴いといてね」 と言ってカセットテープを渡そうとした。
「ええわ、面倒くさいから今、聴くわ。ええか、のぉ」
酔っぱらっているのでW氏は、より大きな声で叫んだ。あまりにもうるさいので、俺は面 倒くさいから全く抵抗せず、Hさんから古いラジカセを借りて、奥の埃くさい座敷へ千鳥足のW氏の腕を抱えな がら向かった。
「まあ、聴いてみてよ」
と言って俺は鞄の中からカセットテープを取り出しラジカセに入れ、再生ボタンを押した。

『後の祭り』とはこういう事を言うのか?

今、この古いラジカセのスピーカーから流れ出した音は
紛れも無くあの音・・・。

『カセットテープを間違えた。』
『atamiだ・・・。』

咄嗟に横にいるW氏を見るとW氏はさっきまでの酔っぱいの姿は消え失せ、真剣な顔に変わっていた。 そして、ラジカセのストップボタンを押そうとした俺の手を振払い、言った。
「明後日のレコーディングは延期してくれないかな。急に別の事をしなければならなくなった。申し訳ない。」
「じゃあ、いいですよ。明後日のレコーディングは俺だけ行きますよ。」
余りにもW氏が、改まった口調で言ったので、明後日のレコーディングを延期する事を、後先考えずに了承してしまった・・・。
「Oくんも一緒じゃなければあかんよ。この音を聴いて何とも思わないんか!」

・・・W氏と俺のプロジェクトが今、産声を上げた。

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