読切り小説 atami story 熱海物語

第五章

ミレニアムを祝う空気が日増しに盛り上がってきた11月の下旬。
俺が『あのテープ』をサウンドプロデューサーW氏に誤って聴かせてしまった事から、このプロジェクトが始まった・・・。

今日は12月1日。
俺は恵比須駅から明治通りを渋谷方面に歩いて約10分くらい所にあるW氏が所属す事務所が所有するスタジオに向かっている。元々暑がりの俺は、ちょっと早足で歩いた為か少し汗ばんでいる。
『今年は暖冬かな?』
そんな事を思いながら、スタジオのあるビルの隣のコンビニに入り清涼飲料水を買って喉を潤わせた。
本来ならば俺とW氏は代々木にある大きなレコーディング・スタジオに居るはずであった。でも『あのテープ』を一昨日、間違って俺がW氏に聞かせてしまったが故にこんな事になってしまった・・・何で、ずっと『あのテープ』は俺の鞄の中に入ってたんだろう・・・。

あの時、W氏が俺に一昨日言った台詞・・・。
「この音を聴いて何とも思わないんか!」
今年の正月、俺宛に届いた送り主の名前が記されれいない汚い茶色の封筒。
その中に入っていたカセットテープと手紙・・・。
手紙の内容に俺はEさんを思い出し、そして10年前の辛い思い出が蘇った。
・・・でも『あのカセットテープ』には心動かされなかった、何も思わなかった。

『『atami』ってなんだろう?』
『カセットテープと手紙の関連性はあるのか?』
『W氏は一発で魅了されたみたいだったな?』
『そう言えば、Eさんの墓参りに行ってねえな?』
『それから、えっと、それから・・・』
「お早うございます!」
新入社員か?見慣れないスタジオ受付の明るい声に次々と浮かんでくる思いはバッサリ切り捨てられた。

このスタジオは、所謂プライベートスタジオである。
大きなスタジオの様に巨大なミキサー(注1)などは無い。広さは20畳くらい。
入り口を入ると右手に長い黒の革製のソファーがあり、まん中にキーボードとコンピューターのモニター&キーボードが乗っている机がある。そして、その机を取り囲む様に多数の機材が積んである。左手には高性能のコンパクトなミキサー(注1)がある。
俺がスタジオのドアを開けるとW氏はソファーに横になって目を閉じていた。
『寝ているのかなあ?』
近付くと耳には小さなヘッドフォンが入っていた。
どうやら携帯用カセットデッキを聴いてるみたいだ。
『何を聴いているのかな?』
俺はW氏に近付きながら耳を澄ますとヘッドフォンの隙間から漏れてくる音・・・
『あの音だ。』
そう・・・断片的に多数のメロディーの切れ端が沢山入っている『あのテープ』だ。

・・・スタジオに入って、もう3時間経った。
ずっとW氏はヘッドフォンをして黒いソファーに横になっている。
「おぉ、ええ感じや。まとまるわ!」
突然大きな声を出して立ち上がったW氏は、無造作にヘッドフォンを外しスタジオの中央にある机に座り、コンピューターのシーケンサー(注2)を動かし始めた。
コンピューターのキーボードとキーボードを交互に、忙しく動かす姿を見て俺は思った。
『まるで誰かに操られる人形の様だな。』

・・・さっきまでの静寂が嘘の様に慌ただしくなった。
時間の経過と共に、あれだけあった沢山の相互に関連性を持たない断片的なメロディーが次第に全貌を見せてきた・・・。
そう、W氏の手を借りる事によって『あのカセットテープ』は、まるで朽ち果 てた薔薇が赤く蘇る様に命が吹き込まれていく・・・そして始めて俺は思った・・・。
「このサウンド、本当に凄い・・・。」

ふと古臭いデジタルの置き時計に目をやると、4:19を示していた。

注1・・・複数の音声の音量 のバランスを調整、またミックスしたりブロック分けを行う機器。「卓」と呼ぶ事もある。

注2・・・コンピューターを使って大量の音符、シンセサイザー等の音源を一括でコントロールするコンピューターソフト。

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