読切り小説 atami story 熱海物語

第十章2

「旅館はどの辺りなの?途中まで乗って行かない?」
制止を振り切ってSさんを追い掛けたT君の背中の残像をいつまでも追っていた俺はやさしく問いかけるEさんの奥さんの声で我に還った。
そして振り返り軽い笑みを浮かべながら今日宿泊する宿の場所を伝える。
「あら!私の家から歩いて行ける距離だから一寸寄って、お茶でも飲んで行かない?」

熱海の駅から約10分、曲がりくねった坂道の中腹。市役所らしい建物の裏手にあるマンションが自宅の様だ。ドアがスケルトンのエレベーターで8階まで上がり、一番左側の部屋のドアの鍵穴に奥さんは鍵を差す。
「あっママお帰り!」
勢いよく奥さんに抱きつく3歳くらいの女の子は、俺の姿を見つけると奥さんの背中に隠れて顔の半分だけを覗っかせている。久しぶりに逢うEさんの長女は相変わらず可愛らしい。
・・・待てよ10年前も3歳くらいで今も3歳って事は無いよな?奇妙なタイムラグが俺の頭の中を駆け巡る・・・『どういう事?・・・再婚したのか?』

「こらこら、お客さんにご挨拶しなさい!」
そう言われた直後、長女は下を向いたまま部屋の隅に置いてあるピアノの方に駆け出しピアノと壁の間に隠れた。
「ご免なさい。躾が悪くて・・・気を悪くしないでね」
10年前に見たアップライトのピアノは当時のまま、そして10年前に初めて会ったEさんの長女の行動もまた、当時まま・・・デジャブーなのか?複雑な思いを抱きながらも奥さんに勧められるがままに居間のソファの端に座った。右手にある大きな窓からは熱海の町並が一望できる。街のイルミネーションは星座のようで、その上に広がる海は暗黒星雲の様だ。綺麗というより一寸神秘的な香りが漂う。
「はぁい、お待たせしました」
明るい奥さんの声と伴に、炭の香ばしいコーヒーの香りが俺の鼻先に届いた。

・・・他愛も無いこと。俺の仕事内容や妻の事。Eさんの同僚の話や流行の話。
Eさんの奥さんは何故俺を家に招いてくれたのか?矢継ぎ早に質問する奥さんの言動は何か時間稼ぎをしている様に見える。
「プルルルルル~、プルルルルル~」
「ちょっとご免なさい」
電話が鳴った。奥さんは呼び鈴の発信元であるカウンターキッチンの方に向かう。
『T君はどうしたのかな?勢い良くペンションに入ったと思ったら直ぐ出てきて、また凄い勢いで愛車で出掛けて行ったよな・・・ちょっと電話してみるか』
俺はソファーに置いた自分の青いジャンパーのポケットから携帯電話を取り出した。
「け、圏外?8階なのに!」

「見つかっちゃた?・・・まだ?・・・じゃぁ戻らないほうがいいわね。帰ってきなさい。」
息を潜めた内緒話風の声は何故か良く聞こえる、別に意識的に盗み聞きしている訳ではないが・・・また同時に俺の左頬に奥さんの刺すような視線を感じる。俺は携帯電話の画面 を見る振りをしながら首の角度は変えずに眼球だけを最大限左側に動かす。受話器を置くプラスティックの擦れた音を残して、奥さんのスリッパと絨毯が擦れる耳障りな音が近づいてくる・・・。
「奥さん、ここって携帯電話の・・・」
「もうじき旅館の夕御飯の時間じゃ無い?」
俺の話を遮るかの様に、そして先程とは打って変わって何か急かす様な落ち着きの無い声に変わっている・・・つまり『帰って欲しい』っていう事だ。
「ただいま~ぁぁ」
玄関が開き気怠さを含んだ声と伴に中学生が部屋に入ってきた・・・『この子が長女?』彼女は俺に視線を向けて全く表情も変えず会釈をした後
「ママいいの!私達の過去を知っている人なんかを家に上げて・・・本当にいいの!」
先ほどの仏頂面は何処にやら、明らかに怒りの感情を持った表情に変化した。
『私達の過去って・・・E家の過去?どういう意味』

「あっ!お姉ちゃんお帰り!ラ~ラッラッラ~ラ~ッラッラ」
奥の部屋に隠れてた先程の小生意気な次女が歌いながら近づいてくる。
・・・えっ?そのメロディーって、えっ!「ナイチンゲール」じゃないか!
「何で、何でそのメロディー、『atami』のメロディーを知ってるの?」
無意識に大声を出した俺の方を、女性3人は驚きと怒りに似た何とも言われぬ 表情を、一斉に俺に向けた。その視線にたじろぐ俺に向かって奥さんが絞り出す様な声で言った。
「このメロディーは、旦那が・・・Eが・・・作った曲です」
・・・えっ、だってこのメロディーはW氏があの『atami』のテープから感化されて作ったオリナルメロディーだ。それに、このメロディーを知っているのはW氏と俺しか居ないはず・・・。
「って言われても・・・この曲は『atami』のメロディーなんです。勘違いだと悪いのでもう一度歌って貰える?」
「ダメよ!ダメ!パパを困らせないで!このままに・・・パパをこのままにしておいて!」
長女が激しい剣幕で俺に噛み付く・・・でも何言ってるのか、さっぱり分からない。

「Oさん、旦那に、Eに逢いたいですか・・・」
奥さんまで訳の分からない事を言い出す始末・・・うぅん?でも墓Qりした時・・・。
「だめよ、ママ!逢わせちゃダメ!絶対に!」
「もう、Oさんは気がついてるのよ!墓石にパパの名前が無い事に!」

「Oさん、旦那は、Eは死んでなんかいません、生きてます。御会いになりますか」
衝撃的な奥さんの一言は僕の思考能力を奪った。

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